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西郷どん (42)「両雄激突」

(2018日)

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菊次郎(11歳)と、市来宗介(隆盛の妹、琴の子、23歳)
明治5年(1872)2月28日、アメリカ留学に出発。


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明治6年(1873)5月、井上馨、「尾去沢銅山事件」を追求され、大蔵大輔を辞職。
他人の銅山を権力を使って奪い所有者村井茂兵衛を失意の死に追い込んだ。


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翌6月、岩倉使節団の副使だった大久保が先に帰国。
が、条約改正はならず、見学して帰ってきただけとのことで
江藤新平らは大久保を追い払った。

西郷らの「留守政府」は、徴兵令、学校教育制度、地租改正、製糸場、鉄道、太陽暦、裁判所と次々と成果を出していた。


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9月13日、岩倉使節団帰国。長州の、木戸、伊藤、山縣、井上馨が、岩倉に泣きつき、
薩摩の大久保を使って「朝鮮問題」で政府を乗っ取ろうという飲み会。


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NHKオンデマンド 西郷どん (42)「両雄激突」

10月14日、岩倉は大久保を参議に戻すが、大久保は既に決まっていた西郷の朝鮮派遣を潰しにかかった。西郷を冷ややかに睨みつけた。





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大河ドラマ中間総括2

8月からほぼ毎日大河ドラマを見ています。
私の中で混乱してきましたので、再度、整理します。



----過去視聴済

『独眼竜政宗』 (1987) 総集編全5回
『武田信玄』  (1988) 全50回
『秀吉』    (1996) 全49回
『毛利元就』  (1997) 全50回
『新選組!』  (2004) 全49回
『義経』    (2005) 全49回
『風林火山』  (2007) 全50回 
『天地人』   (2009) 全47回
『八重の桜』  (2013) 全50回
『軍師官兵衛』 (2014) 全50回


----今年

8月より

『西郷どん』 (2018)第1話~         開始


『赤穂浪士』  (1964)第47回のみ      【完了】
『太閤記』   (1965)第42回のみ      【完了】
『三姉妹』   (1967)第19回のみ      【完了】
『竜馬がゆく』 (1968)第16回のみ      【完了】
『天と地と』  (1969)第50回のみ      【完了】
『春の坂道』  (1971)第52回のみ      【完了】
『国盗り物語』 (1973)総集編 前編・後編  【完了】
『勝海舟』   (1974)総集編 前編・後編  【完了】
『花神』    (1977)総集編全5回      【完了】
『草燃える』  (1979)総集編全5回     【完了】
『翔ぶが如く』 (1990)第2部全19回     【完了】
『葵 徳川三代』(2000)総集編全4回     【完了】


11月 

『翔ぶが如く』  (1990)  第1部全29回       開始
『北条時宗』   (2001)  総集編全2回      開始

-----

64年から71年の作品は、フィルムが貴重なので1回分のみ保存だったそうです。
が、1回約45分を6本見るだけで6年分見た達成感を得ることができます。

『翔ぶが如く』第2部からでしたが、第1部をどうしても見たくなりました。

年初の目標に大河ドラマは無かったのですが、人間万事塞翁が馬、
どうなるかは分かりません。使い方が正しいのかも分かりません。
引き続き精進します。





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翔ぶが如く 第1部第4回 黒船来たる

(1990日)

嘉永6年(1853)5月2日、斉彬、江戸を出立。
その2週間前に東インド艦隊は琉球に向かっていた。


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鹿児島からの知らせで29日に岡山あたりで黒船が来たことを知る。
「至急、江戸にも早馬で知らせよ」と命じた。


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斉彬の連絡より先に、艦隊は6月3日浦賀に到着。8日に江戸湾に現れた。
町火消の浅草十番組「を組」新門辰五郎一家も防備に向かう。
後に娘のお芳(よし)は徳川慶喜の妾となる。
この日、町中、大騒ぎとなった。


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薩摩の西郷邸では、有村俊斎からの手紙を読みまわしていた。
黒船来航など江戸の情勢を記していた。
6月下旬だったのでしょう。



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NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第1部第4回 黒船来たる


この年、斉彬の養女となった市(いち)は8月21日、江戸に向かった。
10月中旬、京都の右大臣近衛忠煕邸に到着。島津家とは親戚筋だった。
幾島(樹木希林)が教育係となった。





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翔ぶが如く 第1部第3回 運命の女たち

(1990日)

島津斉彬が藩主として薩摩に戻った翌年、嘉永5年(1852)正月、
謹慎中の大久保宅を訪問する吉之助。


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大久保の妹、みね、きち、すま


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長崎のオランダ商館長から報告された"来年にペリーが来る”という「別段風説書」の内容を知った徳川斉昭(水戸藩主)が老中阿部正弘を訪れた。



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祖父龍右衛門と俊(吉之助の最初の妻、父は伊集院兼善、)

祖父は孫の嫁に語った。
龍右衛門の兄が江戸藩邸で公金横領の疑いをかけられたが、
裁きの前に切腹した罪とのことで47石の扶持は名だけとなり無くなった。
加治屋町一の貧乏となったそうだ。


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NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第1部第3回 運命の女たち

(有村俊斎、大山格之助)
15名の江戸留学生が決まった。吉之助は願書を出さず、友人を見送った。

吉之助は、青年のリーダー、二才頭(にせがしら)も務めたので、
周囲は当然に有資格者と思い、上司にも願書未提出を叱られたが、
この年、祖父、父、母が相次いで他界し、吉之助の悲しみは深かった。





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北条時宗 総集編 前編 兄弟

(2001日)

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建長3年(1251)5月、第5代執権北条時頼と葛西殿より時宗は誕生する。
葛西殿は毛利季光の娘で戦で敵となり父を殺した時頼との婚約は破棄されず、恨みを抱いたまま時宗を育てた。(本当は北条重時の娘なのでしょう)


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時輔は時宗の兄で側室の子だった。
鎌倉幕府第6代将軍から上洛にあたり奉供人(ぐぶにん)筆頭を命じられた。
第6代執権北条長時も同意する。
第5代の時頼は病により臨時に長時に譲った。時宗成人までとのことだった。


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時宗は父から、「将軍の上洛を阻止してみろ」とテストされる。
後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え入れていたが、
将軍は兵1万と金を使う上洛を実行し、権威を示したかった。


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時宗は会議で上洛を止めるよう説得する。左から

安達泰盛 頼朝の流人時代から支えた安達盛長(『草燃える』では武田鉄也)の曽孫
北条政村 政子の甥、第2代執権義時(『草燃える』では松平健)の子
北条時宗 義時(第2代)→ 泰時(第3代) → 時氏 → 時頼(第5代)→ 時宗
北条長時 第6代執権、傀儡だった。政村の甥。(川崎麻世)
北条実時 金沢文庫の創始者



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(宗政、時宗、時輔)
時頼は息子3人を集め、遺言を口にした。
第一、「毒を盛った犯人を捜すな」だった。
第二、「第6代執権、北条長時を殺せ」だった。

その後、時宗だけには、「時輔を殺せ」と残した。


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長時が死んだ。
鎌倉幕府第6代将軍(吹越満)は、自分が長時に「時宗を殺せ」と命じたことが原因かもしれないと狼狽する。


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「信頼している」という時宗の言葉に、
時輔は「なら、目を瞑ってみろ」と刀を抜いた。


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兄時輔を六波羅へ飛ばすと同時に、時宗は執権を辞退した。
第7代執権が転がり込みご満悦の北条政村。
時宗14歳だったので、中継ぎだったのが正しいのでしょう。



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NHKオンデマンド 北条時宗 総集編 前編 兄弟

が、モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンから国書が届いた。
これを機に、18歳の時宗が第8代執権となり、政村は連著として支えた。

元の広大な光景や海の商人も描いており、見応えありました。




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翔ぶが如く 第1部第2回 新藩主お国入り

(1990日)

嘉永4年(1851)春、島津斉彬が薩摩に戻った。藩主としてだった。
高崎崩れ(お由羅騒動)から1年半だった。

斉彬は一同に就任挨拶をする。


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痛み入る、島津久徳(ひさのり)、島津久宝(ひさたか)。
斉彬は名指しで、「この後もよろしく余に忠義をつくせ」と言った。
自害した調所広郷の後任家老となった斉興側近だった。


粛清人事を行わず、挙国一致体制を敷いた上で、斉彬は声を上げる。

「藩士たるもの質素倹約」「国を富ますこと急務」

一同、納得する。


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斉彬側近として活躍する関勇助。
「言路洞開」
下の者の意見を聞くとのことで、早速、吉之助は建白書を出した。


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その頃、大久保は謹慎中の身だったので、西郷宅で食事をすることもあった。
左奥、吉二郎(村田雄浩)
西郷家も厳しかったが、斉彬の開墾奨励策もあり前向きではあった。


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土佐の漁師だったジョン万次郎だったが、
漂流後、助けられアメリカで様々な事柄を吸収。
琉球に戻ったところ捕まり、薩摩へ移送され、斉彬に登用された。


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NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第1部第2回 新藩主お国入り


西郷吉之助は妻となる須賀と会っていたが、怪しい連中に絡まれた。
(有馬新七、吉井幸輔、大山格之助、伊地知正治)




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草燃える 総集編 第5回 尼将軍・政子(最終回)

(1979日)

建仁3年(1203)9月7日、比企能員の変を経て源実朝(11)は第3代将軍となった。
祖父の初代執権北条時政が支えた。
頼朝以来の功臣を潰しにかかる。


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元久2年(1205)6月22日、 畠山重忠 享年42 (ウルトラセブン)
時政の前妻の娘婿だったが、息子の重保と牧の方(時政の後妻)の娘婿の平賀朝雅との揉め事から謀反の疑いをかけられ滅ぼされる。


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が、人望のあった畠山重忠一族を滅ぼしたことは後味が悪く、
義時や政子、御家人は、時政や牧の方に不信を抱き問い詰めた。
牧の方が実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を鎌倉殿にしようとしたことが発覚。

父時政は義時に言った。

 「いつのまにか 薄気味悪いやつに・・・」
 「悪党め、北条一族で最たる悪党よ、そなたは、」

時政と牧の方は閏7月20日に出家、京都守護だった平賀朝雅は殺害された。



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建暦3年(1213)5月3日 和田義盛も討たれた。
大功労者だったが、義時が挑発し和田一族を滅ぼした。


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三浦義村の妻は公暁(頼家の次男)の乳母だった。
公暁は園城寺(天台宗総本山)で修行していたが、
建保5年(1217)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、祖母政子と再会する。


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公暁は三浦義村の四男駒若丸(京本政樹)と衆道の仲でもあった。
公暁は父殺しの恨みを実朝に抱いていたが、
義村は第2代執権北条義時も討つことを公暁に焚きつけた。


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建保7年(1219)1月27日、八幡宮拝賀を狙って、公暁は暗殺を実行した。
随行する北条義時も同時に殺害するつもりだったが、義時は身代わりを用意し離れていた。
三浦義村は実朝と義時が討たれれば、公暁を戴いてクーデターを実行する計画だったが、
義時が存命である以上、「知らぬ存ぜぬ」という立場で公暁を殺すことにした。
嗚咽する京本政樹だった。



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NHKオンデマンド 草燃える 総集編 第5回 尼将軍・政子(最終回)


後鳥羽上皇は、実朝暗殺を機に、政治的実権を取り戻すべく、義時追討の院宣を出した。不安が襲いかねない東国武士団を政子は奮い立たせた。

政子は、彼らに、敵となるも味方となるも自由としたところ、

真っ先に声を上げて忠誠を誓ったのが、三浦義村(現 藤岡弘、)だった。




戦が終わり、琵琶法師が義時の前に現れた。

「祇園精舎の鐘の声……」


滝田栄の伊東祐親が物語の伏線で作品に厚みを与えていました。
見事でした。





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翔ぶが如く 第1部第1回 薩摩藩お家騒動

(1990日)ペリー来航より7年前の弘化3年(1847)イギリス艦船が通商と布教を要求し威圧してきた。


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琉球から薩摩を経て江戸の島津斉彬は知ることとなる。


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その頃、西郷邸は大家族だった。
3人の妹、安(やす)、琴(こと)、鷹(たか)、母の政佐(まさ)


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祖父の西郷龍右衛門(浜村純) 「淳」は別人。


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安、きみ(祖母)と信吾(後の従道)
鷹に抱かれている子が、小兵衛。



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当時のニューリーダー。
斉彬、松平春嶽(越前藩主)、阿部正弘(老中)、伊達宗城(宇和島藩主)


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翌、弘化4年(1847)3月7日に江戸より戻った薩摩藩主 島津斉興と側室お由羅。
又次郎(後の忠義)と久光

藩主と嫡男が藩元にいてはならず、1週間せずに斉彬は江戸へ。
その後、斉興が久光を家老とし、次期藩主に据えようとする。



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斉彬は、弘化5年(1848)老中阿部正弘に薩摩の密貿易を密告。
そして、会計責任者の調所笑左衛門を呼び出し、詰問。自害へと追い込んだ。

薩摩では斉彬派がお由羅殺害計画を立てていた。
調所の死もあり、斉彬と由羅は激怒。粛清が始まった。


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重臣、赤山靭負 切腹。27歳。
父の吉兵衛(左)が側用人をしており西郷は大久保と共に近い先輩だった。
西郷の精神の基底には、赤山の血衣があったようだ。


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大久保利世(一蔵の父)も遠島となった。
一蔵は、藩の記録所書役助だったが、謹慎となる。
切腹13遠島16 蟄居など50名に及んだ。



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NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第1部第1回 薩摩藩お家騒動


西郷は、大久保宅へ野菜を届けた。礼を言う母の福だったが、
沈んでいた一蔵に吉之助は一喝。
ここでの畑仕事が大久保利通の根底となったのでしょう。


その後、「お由羅騒動」を理由に、老中首座の阿部は、
第12代将軍の家慶から斉興を隠居させ斉彬にするよう図る。


知らせを聞いた吉之助と一蔵は喜び合うのだった。





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西郷どん (41)「新しき国へ」

(2018日)

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明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団が出発した。
岩倉は、西郷に、「何もするな」と言い残した。



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薩長閥に不満を持つ人間たちは、できることはやりたかった。
山縣有朋を追求する、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平。



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山縣は、長州の同郷だった山城屋に約60万円と現在で100億以上の不正融資を行い、
飲み食いに使っていた。
司馬によれば女にだらしない伊藤を除けば長州は金に汚かったようだ。
大村を引き抜く際も約束していた100石を5年間与えなかった。



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明治5年(1872)6月22日~7月2日、明治天皇の従者として西郷は帰郷した。
山岡鉄舟(西郷の横)は静岡にいたが西郷の勧めで村田新八らと共に宮中に出仕した。



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NHKオンデマンド 西郷どん (41)「新しき国へ」


島津久光、洋装した立派な明治天皇に涙した。





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草燃える 総集編 第4回 頼家無惨

(1979日)

建久10年(1199年)1月13日、頼朝急死により、18で頼家が第2代鎌倉殿となる。


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争いがあれば、即決裁判で所領没収。親しい者に分け与えた。
当然に、不満となり、わずか3か月後に13人の合議制となった。

13名の中に安達盛長がいたが、息子景盛の妻を拉致して妾にするなど、
頼家に分別はなかった。


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梶原景時(左)、頼朝を「石橋山の戦」で救い重用されたが、頼家の代となり、
66人の景時排斥の連判状が提出され、正治2年(1200)1月20日、追放となった。
中央、梶原景季(宮崎達也)
『翔ぶが如く』の野村忍介で警察署長だったが西南戦争を戦う。



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建仁3年(1203)6月 阿野全成(頼朝の異母弟) 処刑。
頼家の叔父だった。


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全成の妻は阿波局(北条時政の娘で政子の妹)だった。
実朝の乳母をしていた。



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が、将軍頼家は大量の血を吐き、8月末に危篤状態となった。
左から、北条時政、比企能員(佐藤慶)、北条義時

比企一族は頼朝の幼少期から支え信頼されていた。
が、頼家は比企を重視し北条を軽んじた。
この場で、時政は頼家回復の祈願を口実に比企能員を自邸に招く。


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9月2日、比企一族、滅ぼされる。
右の比企宗員(能員の子で頼家の近習)に抱かれている子が、頼家の長男一幡(いちまん)。
政子にとっては孫だったが、炎の中の人となった。
髪の乱れた女、比企重子(能員の妻)と娘の若狭局(頼家の妻で一幡の母)

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政子は義時(弟)に言う。

「あの人たちには死んでもらうしかなかった。頼家が死ぬと決まっている以上は」

義時と政子は、頼家の死の前に頼家を死んだことにし、
朝廷に、実朝への将軍宣下の使者を出し、頼家の妻子を含め比企一族を殺した。


ところが、だった。頼家が、回復。
事情を聞いた頼家は激怒したが、どうしようもなかった。


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伊豆国修禅寺に向かう日、涙する母を見ようともしなかった。



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NHKオンデマンド 草燃える 総集編 第4回 頼家無惨


元久元年(1204)7月18日、享年23。
典型的な2代目で妻子を殺され回復するという愚か悲惨な末路でした。


『愚管抄』では抵抗したようだ。

「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」




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