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鎌倉殿の13人 (10)「根拠なき自信」

(2022日)


治承4年(1180) 8月17日に挙兵した頼朝だったが、
10月、富士川の戦いに勝利し、ようやく鎌倉で一息つくこととなった。


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奥州の藤原秀衡は義経と清盛双方から兵を出すよう文が届けられた。
が、秀衡は双方に承知した、と期限を設けずに伝える。そして文は焼却。


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清盛は後白河法皇に報告し、次は自ら出陣するとした。
法皇は、祈ると返答し、その後、文覚に呪殺を依頼。
それが誰なのかは自明であり、成就するということだった。
文覚は法皇の信頼を得、後半まで暗躍するのでしょう。


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大庭景親は伊東と北条を仲介して頼朝を助けたことが仇となったとし、
お前もそうならぬように気をつけることだと上総広常に笑って警告してあげ、
斬られることとなった。
山内首藤経俊の母は頼朝の乳母あり嘆願により赦された。


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政子の御台所としての作法を学ぶため、りくの兄の牧宗親が師となった。


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(足立遠元)

頼朝から御所内の差配を任された。


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(源義経 源範頼 阿野全成)

弟たちと語り合う。


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亀の前は台所を預かっていたが
八重のことを知り、酒をもってこさせた。



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(佐竹義政)

10月27日、頼朝は常陸の佐竹を攻めることとなった。
源氏ではあったが、敵対していた。
上総広常と対面するも斬られる。口は禍の門だった。


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戦となり、義経の案が認められるも、
広常が内通者を得、勝利を得ることとなった。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


鎌倉へ凱旋し休んでいると、義円がかけつけた。
これで常盤御前の息子たち3人が揃った。





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