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鎌倉殿の13人 (11)「許されざる嘘(うそ)」

(2022日)


治承4年(1180) 8月17日に挙兵した頼朝だったが、
紆余曲折を経、12月12日、鎌倉に御所が完成し居を移すこととなった。


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功労者リストの筆頭は上総広常だった。
義時には江間の地を与えることにした。


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和田義盛には希望を叶えてやり侍所別当を与えた。


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頼朝はこの日より、「佐殿」から「鎌倉殿」となる。


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治承5年(1181)閏2月4日、
「頼朝を殺せ、わしの墓前にあやつの首を供えるのだ」
清盛は宗盛に命じ他界。


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頼朝は自らの手で殺したかった清盛の死が残念ではあった。
半分は平家の弱体化となるので嬉しくもあったのでしょう。
が、ここで平家打倒を誓い、皆の心を奮わせる。


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呪殺が効いたのでしょう。法皇はお喜びになられた。


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叔父の行家が清盛の死を機に攻めることを求めてきた。
が、頼朝は会わず、行家は義円を連れて出て行った。
義経にけしかけられた義円も愚かではあった。実の兄の全成にも相談すべきだった。
頼朝への手紙を義経に託したが、義経は破り捨てる。
それを梶原景時が見ていて手紙を修復し頼朝に報告。
今回は、義経は謹慎で済んだ。


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政子が懐妊し男子を望むには徳が必要と恩赦を実行。
さらに全成は千鶴丸の成仏が必要と殺害を命じた伊東祐親の死を求めた。


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清盛の死と恩赦により伊東祐親も憑き物が取れ穏やかな暮らしを求めはじめたが、
この後、祐清と共に自害したと公表される。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



北条宗時を殺した実行犯を使ったのは、梶原景時だった。
善の児といえど、命令によりこれからも繰り返すのでしょう。
ここで善児は梶原景時に仕えることになったが、
景時の死後は、義時に仕えて汚れ仕事をしていくのでしょう。






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