青天を衝(つ)け (41)「青春はつづく」(最終回)
(2021日)
大正7年(1918)、敬三は、仙台二校高を卒業し東京帝国大学経済学部へ入学。
自室は生物の研究室だった。
ワシントン会議への出席を渋っていることに是非とも行くべきだ、とした。
が、原敬は「移民問題はアメリカの内政問題」とし口を出すべきではないと返す。
米国が日英同盟を解消させようとしていると危機感があった。
敬三は、卒業後横浜正金銀行に勤めた。
第一銀行ではなくまずは外を見て見たいと栄一に伝える。
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大正7年(1918)、敬三は、仙台二
自室は生物の研究室だった。
ワシントン会議への出席を渋っていることに是非とも行くべきだ、とした。
が、原敬は「移民問題はアメリカの内政問題」とし口を出すべきではないと返す。
米国が日英同盟を解消させようとしていると危機感があった。
敬三は、卒業後横浜正金銀行に勤めた。
第一銀行ではなくまずは外を見て見たいと栄一に伝える。
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vbc-1 at 2021-12-27 00:00
青天を衝(つ)け (40)「栄一、海を越えて」
(2021日)
明治42年(1909)、第2次桂内閣時代、伊藤は初代韓国統監を務め、
6月より枢密院議長を務める。
議長だった山縣有朋を枢密顧問官とし議長を伊藤にして上下関係を明らかにさせるという伊藤を信頼する明治天皇の御意思だった。
栄一は渡米前の挨拶に大磯の伊藤邸を訪ねた。
伊藤は、ハルピンに行くと言う。
民間人51名の渡米実業団が91日間の列車での民間外交を行う。
栄一は60の都市で70回の講演を行ったという。
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明治42年(1909)、第2次桂内閣時代、伊藤は初代韓国統監を務め、
6月より枢密院議長を務める。
議長だった山縣有朋を枢密顧問官とし議長を伊藤にして上下関係を明らかにさせるという伊藤を信頼する明治天皇の御意思だった。
栄一は渡米前の挨拶に大磯の伊藤邸を訪ねた。
伊藤は、ハルピンに行くと言う。
民間人51名の渡米実業団が91日間の列車での民間外交を行う。
栄一は60の都市で70回の講演を行ったという。
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vbc-1 at 2021-12-20 00:00
青天を衝(つ)け (39)「栄一と戦争」
(2021日)
明治30年(1897)、慶喜が東京に戻ってきた。
19世紀も終わる頃、栄一は、喜作と惇忠を連れ慶喜を訪ねた。
慶喜は、平九郎の死、惇忠の心労や冨岡製紙場での働きを知っていた。
惇忠に対し、労う立場には無いが尊いことと感服している、と話す。
惇忠は、青年の頃遠くで見た少年七郎麻呂の姿を思い出し涙する。
1901年1月2日、惇忠、他界。
この年、裕仁親王誕生、後に昭和天皇となる。
また、山形県酒田の米問屋加賀屋に八代..
明治30年(1897)、慶喜が東京に戻ってきた。
19世紀も終わる頃、栄一は、喜作と惇忠を連れ慶喜を訪ねた。
慶喜は、平九郎の死、惇忠の心労や冨岡製紙場での働きを知っていた。
惇忠に対し、労う立場には無いが尊いことと感服している、と話す。
惇忠は、青年の頃遠くで見た少年七郎麻呂の姿を思い出し涙する。
1901年1月2日、惇忠、他界。
この年、裕仁親王誕生、後に昭和天皇となる。
また、山形県酒田の米問屋加賀屋に八代..
vbc-1 at 2021-12-13 00:00
青天を衝(つ)け (38)「栄一の嫡男」
(2021日)
大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)、
東京開市三百年祭が行われた。
蝦夷共和国の函館奉行だった三島由紀夫の高祖父永井尚志が遅れて入ってきて、
「徳川万歳」と口にした。
次女の琴子は後に大蔵次官や東京市長となる阪谷芳郎と結婚。
くにの子、文子は惇忠の子次郎、照子は千代の甥の大川平三郎に嫁ぐ。
くには、皆さんの立派になられた姿をお千代さんに見せてあげたかった、
お世話になりました..
大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)、
東京開市三百年祭が行われた。
蝦夷共和国の函館奉行だった三島由紀夫の高祖父永井尚志が遅れて入ってきて、
「徳川万歳」と口にした。
次女の琴子は後に大蔵次官や東京市長となる阪谷芳郎と結婚。
くにの子、文子は惇忠の子次郎、照子は千代の甥の大川平三郎に嫁ぐ。
くには、皆さんの立派になられた姿をお千代さんに見せてあげたかった、
お世話になりました..
vbc-1 at 2021-12-06 00:00
青天を衝(つ)け (37)「栄一、あがく」
(2021日)
明治15年(1882) 7月、千代が他界。
同月、共同運輸会社が発足した。
有事の際の軍事利用の条件で政府出資となり伊藤雋吉海軍少将が社長となる。
苛烈な競争となる。
新聞講談では、共同運輸と三菱との戦いをネタにし、反三菱反大隈感情が沸き立った。
翌16年、栄一は伊藤兼子と再婚する。
歌子に重遠が誕生。
が、10歳で母を亡くした篤二にとって全てを飲み込んで懐ける段階ではなかった。
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明治15年(1882) 7月、千代が他界。
同月、共同運輸会社が発足した。
有事の際の軍事利用の条件で政府出資となり伊藤雋吉海軍少将が社長となる。
苛烈な競争となる。
新聞講談では、共同運輸と三菱との戦いをネタにし、反三菱反大隈感情が沸き立った。
翌16年、栄一は伊藤兼子と再婚する。
歌子に重遠が誕生。
が、10歳で母を亡くした篤二にとって全てを飲み込んで懐ける段階ではなかった。
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vbc-1 at 2021-11-29 00:00
青天を衝(つ)け (36)「栄一と千代」
(2021日)
明治13年(1880年)8月、岩崎弥太郎は渋沢栄一と組もうと誘ったが、
合本を否定する弥太郎を残して栄一は立ち去った。
海運を独占する三菱は高い運賃を設定し値引きに応じなかった。
そこで三井物産の益田孝が第一銀行頭取の栄一に相談。
東京風帆船会社を設立することとなる。
が、岩崎の政治と新聞を使った猛反撃に風帆船會社は事業開始前に萎んでしまった。
千代や歌子は東京養育院にしばしば足を運んだ。
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明治13年(1880年)8月、岩崎弥太郎は渋沢栄一と組もうと誘ったが、
合本を否定する弥太郎を残して栄一は立ち去った。
海運を独占する三菱は高い運賃を設定し値引きに応じなかった。
そこで三井物産の益田孝が第一銀行頭取の栄一に相談。
東京風帆船会社を設立することとなる。
が、岩崎の政治と新聞を使った猛反撃に風帆船會社は事業開始前に萎んでしまった。
千代や歌子は東京養育院にしばしば足を運んだ。
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vbc-1 at 2021-11-22 00:00
青天を衝(つ)け (35)「栄一、もてなす」
(2021日)
明治12年(1879)7月に米国前大統領グラント夫妻が来日することとなった。
3か月前から、喜作、大倉喜八郎、栄一、福地源一郎、益田孝は案を出し合った。
夫人も共にもてなすとのことで千代と喜作の妻よしは大隈邸に挨拶に行った。
大隈綾子に井上武子、益田栄子、大倉喜八郎の妻徳子を紹介させる。
井上馨や益田孝は大蔵省時代からの長い付き合いだが、プライベートは別のようだ。
代議制もなくまだまだ物騒な時..
明治12年(1879)7月に米国前大統領グラント夫妻が来日することとなった。
3か月前から、喜作、大倉喜八郎、栄一、福地源一郎、益田孝は案を出し合った。
夫人も共にもてなすとのことで千代と喜作の妻よしは大隈邸に挨拶に行った。
大隈綾子に井上武子、益田栄子、大倉喜八郎の妻徳子を紹介させる。
井上馨や益田孝は大蔵省時代からの長い付き合いだが、プライベートは別のようだ。
代議制もなくまだまだ物騒な時..
vbc-1 at 2021-11-15 00:00
青天を衝(つ)け (34)「栄一と伝説の商人」
(2021日)
明治10年(1877)に西南戦争となり、西郷隆盛が他界。
木戸孝允もこの年亡くなり、翌11年、大久保利通が金沢藩士に斬られる。
木戸の子分となって浦上キリシタン弾圧事件での正当化、改心者の帰郷阻止
小野組島田組潰しに手腕を発揮した大隈の時代となったかと思われた。
そして、イギリス公使パークスに安政の5か国条約の改正を求めた。
不平等条約を徳川幕府の責にするが、下関戦争の賠償の落とし前に関税率が引き下がり、貿易不均衡となっ..
明治10年(1877)に西南戦争となり、西郷隆盛が他界。
木戸孝允もこの年亡くなり、翌11年、大久保利通が金沢藩士に斬られる。
木戸の子分となって浦上キリシタン弾圧事件での正当化、改心者の帰郷阻止
小野組島田組潰しに手腕を発揮した大隈の時代となったかと思われた。
そして、イギリス公使パークスに安政の5か国条約の改正を求めた。
不平等条約を徳川幕府の責にするが、下関戦争の賠償の落とし前に関税率が引き下がり、貿易不均衡となっ..
vbc-1 at 2021-11-08 00:00
青天を衝(つ)け (33)「論語と算盤(そろばん)」
(2021日)
明治7年(1874)、倒幕戊辰で官軍の財布となった功により、
三井組、小野組、島田組は官金を扱うことを許された。
が、急に預り金全額に対する抵当を出せと大蔵省は命じた。
渋沢栄一は大蔵卿大隈重信に抗議するも、自分だけで決めた訳ではないと逃げようとする。
が、官金を扱う大企業を潰す判断を大隈単独でできる訳もなく、背後に合意があったと考えられる。
明治6年に京都から小野組が転籍しようとしたが知事の槇村が反対した事件があった。..
明治7年(1874)、倒幕戊辰で官軍の財布となった功により、
三井組、小野組、島田組は官金を扱うことを許された。
が、急に預り金全額に対する抵当を出せと大蔵省は命じた。
渋沢栄一は大蔵卿大隈重信に抗議するも、自分だけで決めた訳ではないと逃げようとする。
が、官金を扱う大企業を潰す判断を大隈単独でできる訳もなく、背後に合意があったと考えられる。
明治6年に京都から小野組が転籍しようとしたが知事の槇村が反対した事件があった。..
vbc-1 at 2021-11-01 00:00
青天を衝(つ)け (32)「栄一、銀行を作る」
(2021日)
栄一が民部省改正掛出仕して3年半、大蔵省との統合、分離、
そして廃藩置県で再統合し大久保利通が大蔵卿になり廃止され、
旧幕臣が散らされるも、栄一は大蔵少輔となり大蔵省を支えた。
共にパリで過ごし友人でもあった杉浦譲に辞意を伝える。
岩倉使節団外遊中、大蔵大輔井上馨が司法省などの予算要求を退けたかったが、
参議の大隈に強要されブチ切れ、5月辞職することにした。
尾去沢銅山事件で井上馨は司法卿江藤新平から追求さ..
栄一が民部省改正掛出仕して3年半、大蔵省との統合、分離、
そして廃藩置県で再統合し大久保利通が大蔵卿になり廃止され、
旧幕臣が散らされるも、栄一は大蔵少輔となり大蔵省を支えた。
共にパリで過ごし友人でもあった杉浦譲に辞意を伝える。
岩倉使節団外遊中、大蔵大輔井上馨が司法省などの予算要求を退けたかったが、
参議の大隈に強要されブチ切れ、5月辞職することにした。
尾去沢銅山事件で井上馨は司法卿江藤新平から追求さ..
vbc-1 at 2021-10-25 00:00
青天を衝(つ)け (31)「栄一、最後の変身」
(2021日)
明治4年11月、渋沢市郎右衛門が他界。
初七日が済み貞子の婿になりる須永才三郎が挨拶に来て、
市郎を継ぐことになったと聞く。
大内くにが来て、同居することとなる。
千代の人間ができていたこともあったのでしょうが、
明治の女性は家を優先させたので、珍しいことではなかったのでしょう。
三井から大阪の加島屋に嫁いだ広岡浅子は侍女を夫と結ばせ同居している。
函館で捕まった成一郎が2年半ぶりに釈放。..
明治4年11月、渋沢市郎右衛門が他界。
初七日が済み貞子の婿になりる須永才三郎が挨拶に来て、
市郎を継ぐことになったと聞く。
大内くにが来て、同居することとなる。
千代の人間ができていたこともあったのでしょうが、
明治の女性は家を優先させたので、珍しいことではなかったのでしょう。
三井から大阪の加島屋に嫁いだ広岡浅子は侍女を夫と結ばせ同居している。
函館で捕まった成一郎が2年半ぶりに釈放。..
vbc-1 at 2021-10-18 00:00
青天を衝(つ)け (30)「渋沢栄一の父」
(2021日)
明治2年(1869)12月末に大蔵省に改正掛を設けた。
栄一が入って2年半、度量衡の改正、租税の改正、駅伝法の改良、
貨幣制度、禄制の改革、鉄道布設案、諸官庁の建築、全国の測量と、幅広く手掛けた。
が、官吏の腐敗、規律の乱れ、財政事情と新政府は問題をかかえていた。
明治3年末、正式に勅使として岩倉具視、副使に大久保が薩摩へ来て、
国父島津久光の上京を促すも久光は固辞。
翌正月、西郷が薩摩から上京することとなった。
..
明治2年(1869)12月末に大蔵省に改正掛を設けた。
栄一が入って2年半、度量衡の改正、租税の改正、駅伝法の改良、
貨幣制度、禄制の改革、鉄道布設案、諸官庁の建築、全国の測量と、幅広く手掛けた。
が、官吏の腐敗、規律の乱れ、財政事情と新政府は問題をかかえていた。
明治3年末、正式に勅使として岩倉具視、副使に大久保が薩摩へ来て、
国父島津久光の上京を促すも久光は固辞。
翌正月、西郷が薩摩から上京することとなった。
..
vbc-1 at 2021-10-11 00:00
青天を衝(つ)け (29)「栄一、改正する」
(2021日)
明治2年(1869)12月末に大蔵省に改正掛を設けた。
大輔である大隈を訪問し作らせた。
前島密、杉浦愛蔵、赤松則良、塩田三郎らを静岡藩から呼び寄せた。
改正係の会議では、大隈や伊藤に気兼ねなく栄一が進行。
旧幕臣連中が面白くなかった者たちが大隈に文句を言う。
毛利系吉川家岩国藩の玉乃世履は後に大審院長となる男だった。
大久保利通も留守中に改正掛に旧幕臣が増え勝手なことをして..
明治2年(1869)12月末に大蔵省に改正掛を設けた。
大輔である大隈を訪問し作らせた。
前島密、杉浦愛蔵、赤松則良、塩田三郎らを静岡藩から呼び寄せた。
改正係の会議では、大隈や伊藤に気兼ねなく栄一が進行。
旧幕臣連中が面白くなかった者たちが大隈に文句を言う。
毛利系吉川家岩国藩の玉乃世履は後に大審院長となる男だった。
大久保利通も留守中に改正掛に旧幕臣が増え勝手なことをして..
vbc-1 at 2021-10-04 00:00
青天を衝(つ)け (28)「篤太夫と八百万(やおよろず)の神」
(2021日)
明治2年(1869)夏、版籍奉還となり駿府藩が静岡藩となった。
「郵便の父」となる前島密に挨拶。
医師でもあり蘭学・英語・数学と長け、
漢字廃止論者というラディカルな頭脳の持ち主だった。
慶喜は静岡に美賀を呼び寄せることにした。
徳信院とは修復したようだ。
(向山一履)
パリ万博に共に随行したが、彼が「静岡」と命名。
ドラマでは粗野に見える田辺太一だが外交の人だった..
明治2年(1869)夏、版籍奉還となり駿府藩が静岡藩となった。
「郵便の父」となる前島密に挨拶。
医師でもあり蘭学・英語・数学と長け、
漢字廃止論者というラディカルな頭脳の持ち主だった。
慶喜は静岡に美賀を呼び寄せることにした。
徳信院とは修復したようだ。
(向山一履)
パリ万博に共に随行したが、彼が「静岡」と命名。
ドラマでは粗野に見える田辺太一だが外交の人だった..
vbc-1 at 2021-09-27 00:00
青天を衝(つ)け (27)「篤太夫、駿府で励む」
(2021日)
明治元年(1868)12月、静岡藩庁にて勘定組頭に命じられたが、
百姓の矜持から断る。
昭武からの手紙の返事を水戸へ届けるつもりだったが、
他の者が届けるとのことにややキレる。
が、水戸へ行けば昭武に重用され平岡円四郎や原一之進が殺されたように、
水戸藩士の手にかかる恐れからの慶喜の配慮だった。
水戸では昭武が嘆いていたが、前に進もうと気持ちを切り替えようとしていた。
その頃、新政府は各藩..
明治元年(1868)12月、静岡藩庁にて勘定組頭に命じられたが、
百姓の矜持から断る。
昭武からの手紙の返事を水戸へ届けるつもりだったが、
他の者が届けるとのことにややキレる。
が、水戸へ行けば昭武に重用され平岡円四郎や原一之進が殺されたように、
水戸藩士の手にかかる恐れからの慶喜の配慮だった。
水戸では昭武が嘆いていたが、前に進もうと気持ちを切り替えようとしていた。
その頃、新政府は各藩..
vbc-1 at 2021-09-20 00:00
青天を衝(つ)け (26)「篤太夫、再会する」
(2021日)
明治元年(1868)12月3日、昭武一行は横浜に帰着した。
10日頃に故郷の地を踏むことができた。
文久3年(1863)に生まれた歌子は5歳になっていた。
夫の喜作が蝦夷共和国で励んでいると喜ぶ。
函館では、高松凌雲が敵味方関係なく医療を施していた。
陸軍奉行並の土方歳三と3歳下の器械頭並の渋沢成一郎は、
呼び捨てを許しあう親友だったようだ。
故郷を離れる際..
明治元年(1868)12月3日、昭武一行は横浜に帰着した。
10日頃に故郷の地を踏むことができた。
文久3年(1863)に生まれた歌子は5歳になっていた。
夫の喜作が蝦夷共和国で励んでいると喜ぶ。
函館では、高松凌雲が敵味方関係なく医療を施していた。
陸軍奉行並の土方歳三と3歳下の器械頭並の渋沢成一郎は、
呼び捨てを許しあう親友だったようだ。
故郷を離れる際..
vbc-1 at 2021-09-13 00:00
青天を衝(つ)け (25)「篤太夫、帰国する」
(2021日)
明治元年(1868)12月3日、昭武一行は横浜に帰着した。
杉浦愛蔵が出迎えにきていて、薩長の無礼を避けるため昭武は小舟で上陸地を変えるよう進言。
所持品検査の上、帰ってきたら主がいなくなった浦島太郎だと官軍の口に容赦はなかった。
(田辺太一 福地源一郎 杉浦愛蔵)
栄一は、日本のことを聞いた。
この年の1月、戊辰戦争となり慶喜は大坂から江戸に戻った。
静寛院となった和宮との面会を望んだが拒否される。
..
明治元年(1868)12月3日、昭武一行は横浜に帰着した。
杉浦愛蔵が出迎えにきていて、薩長の無礼を避けるため昭武は小舟で上陸地を変えるよう進言。
所持品検査の上、帰ってきたら主がいなくなった浦島太郎だと官軍の口に容赦はなかった。
(田辺太一 福地源一郎 杉浦愛蔵)
栄一は、日本のことを聞いた。
この年の1月、戊辰戦争となり慶喜は大坂から江戸に戻った。
静寛院となった和宮との面会を望んだが拒否される。
..
vbc-1 at 2021-08-23 00:00
青天を衝(つ)け (24)「パリの御一新」
(2021日)
慶応3年(1867)、パリ万博に随行することとなった渋沢栄一は、
8月、先に帰国することとなった杉浦愛蔵に実家へ立ち寄ってくれと頼んだ。
写真を受け取った千代は「浅ましい」と嘆いた。
10月の大政奉還でパリでも新聞記事となったが、
外国奉行の栗本鋤雲は虚報であると信じなかったが、
1月となり手紙により受け入れざるを得なくなった。
さすがに色を失う。
幕府留学生が帰国すること..
慶応3年(1867)、パリ万博に随行することとなった渋沢栄一は、
8月、先に帰国することとなった杉浦愛蔵に実家へ立ち寄ってくれと頼んだ。
写真を受け取った千代は「浅ましい」と嘆いた。
10月の大政奉還でパリでも新聞記事となったが、
外国奉行の栗本鋤雲は虚報であると信じなかったが、
1月となり手紙により受け入れざるを得なくなった。
さすがに色を失う。
幕府留学生が帰国すること..
vbc-1 at 2021-08-16 00:00
青天を衝(つ)け (23)「篤太夫と最後の将軍」
(2021日)
慶応3年(1867)4月パリ万博に幕府も参加するが、
昭武一行はスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスと歴訪する。
栗本鋤雲は6月に日本を発ち8月にマルセイユについたが、
スイスで昭武に挨拶できたようだ。
600万ドル借款を何としても実現したかったエースの投入だったようだ。
8月14日、平岡亡き後に慶喜の参謀となった原一之進が襲撃され他界。
報告を受けた慶喜は、皆を下がらせた。
..
慶応3年(1867)4月パリ万博に幕府も参加するが、
昭武一行はスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスと歴訪する。
栗本鋤雲は6月に日本を発ち8月にマルセイユについたが、
スイスで昭武に挨拶できたようだ。
600万ドル借款を何としても実現したかったエースの投入だったようだ。
8月14日、平岡亡き後に慶喜の参謀となった原一之進が襲撃され他界。
報告を受けた慶喜は、皆を下がらせた。
..
vbc-1 at 2021-07-19 00:00
青天を衝(つ)け (22)「篤太夫、パリへ」
(2021日)
慶応3年(1867)1月、昭武一行は横浜を出航、パリへ向かった。
3月、階段を上り、フランスの光景に感激したようだ。
会場の様子も再現される。
栄一たちはエレベーターで屋上に上がり、絶景を眺める。
科学技術、国力を目の当たりとし、「参った」と完全に攘夷思想が砕かれた。
幕府は日の丸を掲げて展示した。
薩摩も琉球国として展示していた。
そこへモンブランが現れた。
..
慶応3年(1867)1月、昭武一行は横浜を出航、パリへ向かった。
3月、階段を上り、フランスの光景に感激したようだ。
会場の様子も再現される。
栄一たちはエレベーターで屋上に上がり、絶景を眺める。
科学技術、国力を目の当たりとし、「参った」と完全に攘夷思想が砕かれた。
幕府は日の丸を掲げて展示した。
薩摩も琉球国として展示していた。
そこへモンブランが現れた。
..
vbc-1 at 2021-07-12 00:00
青天を衝(つ)け (21)「篤太夫、遠き道へ」
(2021日)
慶応2年(1866)7月に将軍家茂が他界し、慶喜が徳川宗家を継ぐことになった。
幕府勘定奉行小栗忠順は翌年4月のパリ万博の件を慶喜にお伺いする。
慶喜は原一之進に命じ、渋沢篤太夫を随行させることにした。
見立養子が必要になり、従弟の尾高平九郎にする。
その頃、成一郎は江戸に向かっていた。故郷にも立ち寄る。
師でもあった尾高惇忠にも現況を理解してもらい安堵する。
2人も共に慶喜の下で働くよう説得。
..
慶応2年(1866)7月に将軍家茂が他界し、慶喜が徳川宗家を継ぐことになった。
幕府勘定奉行小栗忠順は翌年4月のパリ万博の件を慶喜にお伺いする。
慶喜は原一之進に命じ、渋沢篤太夫を随行させることにした。
見立養子が必要になり、従弟の尾高平九郎にする。
その頃、成一郎は江戸に向かっていた。故郷にも立ち寄る。
師でもあった尾高惇忠にも現況を理解してもらい安堵する。
2人も共に慶喜の下で働くよう説得。
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vbc-1 at 2021-07-05 00:00
青天を衝(つ)け (20)「篤太夫、青天の霹靂(へきれき)」
(2021日)
慶応2年(1866)7月、家茂は倒れた。
慶喜が見舞う。長州だけは倒したかったと家茂は語る。3日後他界。
家茂は天璋院には次の将軍は田安の亀之助と伝えていたが、
まだ幼児であり老中は反対。一橋しか考えられなかった。
和宮は家茂の苦しみを慶喜に味わわせたかった。
慶喜は、家茂が幕閣に将軍職を慶喜に譲りたいと語っていたと
老中板倉勝静に確認し、引き受けることを決断。
但し、徳川に大ナタを振るう..
慶応2年(1866)7月、家茂は倒れた。
慶喜が見舞う。長州だけは倒したかったと家茂は語る。3日後他界。
家茂は天璋院には次の将軍は田安の亀之助と伝えていたが、
まだ幼児であり老中は反対。一橋しか考えられなかった。
和宮は家茂の苦しみを慶喜に味わわせたかった。
慶喜は、家茂が幕閣に将軍職を慶喜に譲りたいと語っていたと
老中板倉勝静に確認し、引き受けることを決断。
但し、徳川に大ナタを振るう..
vbc-1 at 2021-06-28 00:00
青天を衝(つ)け (19)「勘定組頭 渋沢篤太夫」
(2021日)
慶応元年(1865)、渋沢篤太夫は一橋家の懐を豊にすることを考えていた。
(小栗忠順 栗本鋤雲)
幕府では勘定奉行の小栗が米国から持ち帰ったネジを手にしながら
コンパニー設立を考えていた。
(新納刑部)
元治元年(1865)3月に薩摩藩遣英使節団と15名の留学生が渡英していた。
新納は使節団団長で、五代才助と2年後のパリ万国博覧会への薩摩藩としての参加を考えていた。
五代はモンブラン伯爵と話を進め..
慶応元年(1865)、渋沢篤太夫は一橋家の懐を豊にすることを考えていた。
(小栗忠順 栗本鋤雲)
幕府では勘定奉行の小栗が米国から持ち帰ったネジを手にしながら
コンパニー設立を考えていた。
(新納刑部)
元治元年(1865)3月に薩摩藩遣英使節団と15名の留学生が渡英していた。
新納は使節団団長で、五代才助と2年後のパリ万国博覧会への薩摩藩としての参加を考えていた。
五代はモンブラン伯爵と話を進め..
vbc-1 at 2021-06-21 00:00
青天を衝(つ)け (18)「一橋の懐」
(2021日)
元治元年(1864)12月、天狗党討伐の為、慶喜、後に共にパリへ行く昭徳(昭武)、篤太夫も出陣、敦賀に向かった。
(藤田小四郎、武田耕雲斎)
成一郎が密命を帯び、先に慶喜の手紙を渡した。
自ら征伐しなければならないから投降しろという勧告だった。
2人が慶喜に刃を向けることはあり得なかった。
(田沼意尊)
慶喜は、田沼意次の曽孫である天狗党征討総督の意尊に、
耕雲斎らを引き受けたいと言ったが、田沼は..
元治元年(1864)12月、天狗党討伐の為、慶喜、後に共にパリへ行く昭徳(昭武)、篤太夫も出陣、敦賀に向かった。
(藤田小四郎、武田耕雲斎)
成一郎が密命を帯び、先に慶喜の手紙を渡した。
自ら征伐しなければならないから投降しろという勧告だった。
2人が慶喜に刃を向けることはあり得なかった。
(田沼意尊)
慶喜は、田沼意次の曽孫である天狗党征討総督の意尊に、
耕雲斎らを引き受けたいと言ったが、田沼は..
vbc-1 at 2021-06-14 00:00
青天を衝(つ)け (17)「篤太夫、涙の帰京」
(2021日)
元治元年(1864)6月、江戸に向かっていた。
道中、従弟の伝蔵が来て、惇忠と平九郎の件を伝えた。
村を挙げて「名主を返さなければ牢を打ち壊す」と恫喝。
証拠が無い以上、惇忠の釈放、平九郎の枷も外されたとのことだった。
(伊藤博文 井上馨)
その頃、長州では前年の外国船砲撃に対する4か国の報復直前となっていた。
後に栄一と親しくなる二人が交渉に出向いていたが、
連合艦隊の目的が、攘夷観念そのものを叩き..
元治元年(1864)6月、江戸に向かっていた。
道中、従弟の伝蔵が来て、惇忠と平九郎の件を伝えた。
村を挙げて「名主を返さなければ牢を打ち壊す」と恫喝。
証拠が無い以上、惇忠の釈放、平九郎の枷も外されたとのことだった。
(伊藤博文 井上馨)
その頃、長州では前年の外国船砲撃に対する4か国の報復直前となっていた。
後に栄一と親しくなる二人が交渉に出向いていたが、
連合艦隊の目的が、攘夷観念そのものを叩き..
vbc-1 at 2021-06-07 00:00
青天を衝(つ)け (16)「恩人暗殺」
(2021日)
文久4年(1864)、春、栄一と喜作は人選御用となり関東に向かった。
見送りに来た円四郎は、武士になったが百姓だったことを忘れるな、と言う。
無理に死ぬことはない、という意だった。
11年前、江戸に来た生意気なガキが「江戸の町は商いでできている」と言ったことを覚えていた。
侍は米や金を産むことができないとし、栄一には経済を頼む、という遺言となった。
その頃、水戸では天狗党の挙兵に対し、どうするか揉めていた。
..
文久4年(1864)、春、栄一と喜作は人選御用となり関東に向かった。
見送りに来た円四郎は、武士になったが百姓だったことを忘れるな、と言う。
無理に死ぬことはない、という意だった。
11年前、江戸に来た生意気なガキが「江戸の町は商いでできている」と言ったことを覚えていた。
侍は米や金を産むことができないとし、栄一には経済を頼む、という遺言となった。
その頃、水戸では天狗党の挙兵に対し、どうするか揉めていた。
..
vbc-1 at 2021-05-31 00:00
青天を衝(つ)け (15)「篤太夫、薩摩潜入」
(2021日)
文久4年(1864)、朝議参与として京都で構えていた一橋家に仕えることとなった栄一と喜作だったが、初俸禄となった。
4石二人扶持。京都滞在中の月手当が金4両と一分だった。
その際、2人は「篤太夫」「成一郎」と円四郎から新しい名を頂いた。
断われなかった。
(川村恵十郎 猪飼勝三郎)
元々、酒浸りの藤田東湖の息子を叱った栄一を評価し平岡に勧めたのは川村だった。
小仏関所で働いていたが建白し前年に一橋家家臣..
文久4年(1864)、朝議参与として京都で構えていた一橋家に仕えることとなった栄一と喜作だったが、初俸禄となった。
4石二人扶持。京都滞在中の月手当が金4両と一分だった。
その際、2人は「篤太夫」「成一郎」と円四郎から新しい名を頂いた。
断われなかった。
(川村恵十郎 猪飼勝三郎)
元々、酒浸りの藤田東湖の息子を叱った栄一を評価し平岡に勧めたのは川村だった。
小仏関所で働いていたが建白し前年に一橋家家臣..
vbc-1 at 2021-05-24 00:00
青天を衝(つ)け (14)「栄一と運命の主君」
(2021日)
文久4年(1864)、平岡に一橋家への仕官を勧められるも即答せず、持ち帰った。
喜作は攘夷倒幕の志を完結させるため死を覚悟するも栄一の説得に納得する。
投獄中の長七郎を救う手掛かりになるかもしれなかった。
2人は、平岡には条件付きでの仕官を要求する。
慶喜へ謁見と建白を望んだ。
(酒井忠績 水野忠精)
その頃、孝明天皇が京で参与会議を行うこととしたが、
薩摩の意向であり、警戒した幕府の要人も上京してい..
文久4年(1864)、平岡に一橋家への仕官を勧められるも即答せず、持ち帰った。
喜作は攘夷倒幕の志を完結させるため死を覚悟するも栄一の説得に納得する。
投獄中の長七郎を救う手掛かりになるかもしれなかった。
2人は、平岡には条件付きでの仕官を要求する。
慶喜へ謁見と建白を望んだ。
(酒井忠績 水野忠精)
その頃、孝明天皇が京で参与会議を行うこととしたが、
薩摩の意向であり、警戒した幕府の要人も上京してい..
vbc-1 at 2021-05-17 00:00
青天を衝(つ)け (13)「栄一、京の都へ」
(2021日)
文久4年(1864)1月、慶喜の入京に平岡も随行することになる。
勘定奉行配下の八州取締役に追われたことがあった喜作と栄一は
京に向かう前、江戸の平岡を訪ねた。
奥方から平岡の家臣であると示す書状を頂いた。
身なりを一橋家家臣に相応しく整え京に向かった。
新撰組副長の土方歳三は怖かった。
孝明天皇は参与会議を招集した。
徳川慶喜(将軍後見職)、松平春嶽(政事総裁職)松平容保..
文久4年(1864)1月、慶喜の入京に平岡も随行することになる。
勘定奉行配下の八州取締役に追われたことがあった喜作と栄一は
京に向かう前、江戸の平岡を訪ねた。
奥方から平岡の家臣であると示す書状を頂いた。
身なりを一橋家家臣に相応しく整え京に向かった。
新撰組副長の土方歳三は怖かった。
孝明天皇は参与会議を招集した。
徳川慶喜(将軍後見職)、松平春嶽(政事総裁職)松平容保..
vbc-1 at 2021-05-10 00:00
青天を衝(つ)け (12)「栄一の旅立ち」
(2021日)
文久3年(1863)秋、高崎城襲撃計画を前に栄一は父に勘当してくれと頼んだ。
共に頭を下げてくれた千代に感謝するも、
うたを抱いて欲しいとの願いを聞き入れなかった。
栄一と喜作は江戸に向かった。が、既に幕府に追われる身となっていた。
幸い、自前の一橋家家臣を探していた平岡円四郎に捕まった。
武士になれと誘われたが相手が分からず断る。
後で一橋家と知り驚くが、気が変わったら来いと平岡は言ってくれた。
..
文久3年(1863)秋、高崎城襲撃計画を前に栄一は父に勘当してくれと頼んだ。
共に頭を下げてくれた千代に感謝するも、
うたを抱いて欲しいとの願いを聞き入れなかった。
栄一と喜作は江戸に向かった。が、既に幕府に追われる身となっていた。
幸い、自前の一橋家家臣を探していた平岡円四郎に捕まった。
武士になれと誘われたが相手が分からず断る。
後で一橋家と知り驚くが、気が変わったら来いと平岡は言ってくれた。
..
vbc-1 at 2021-05-03 00:00
青天を衝(つ)け (11)「横濱焼き討ち計画」
(2021日)
文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外にて、6名が老中安藤信正を襲撃。
安藤は軽傷、6名は他界。幕府は関係者を捜索していた。
参加するはずだった尾高長七郎は親族の説得で隠れていたが、
江戸に向かわずにいられなかった。
が、栄一が止め、情勢を説明、無駄死にだと諭した。
仲間の河野顕三が死に自分が生きていることに長七郎は許せなかった。
栄一は4歳下だったが冷静に受け止めた。
この頃から高崎城襲撃、横浜焼き討ち計画..
文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外にて、6名が老中安藤信正を襲撃。
安藤は軽傷、6名は他界。幕府は関係者を捜索していた。
参加するはずだった尾高長七郎は親族の説得で隠れていたが、
江戸に向かわずにいられなかった。
が、栄一が止め、情勢を説明、無駄死にだと諭した。
仲間の河野顕三が死に自分が生きていることに長七郎は許せなかった。
栄一は4歳下だったが冷静に受け止めた。
この頃から高崎城襲撃、横浜焼き討ち計画..
vbc-1 at 2021-04-26 00:00
青天を衝(つ)け (10)「栄一、志士になる」
(2021日)
安政7年(1860)文久元年(1861)春、栄一は江戸に向かった。
父には、横浜が開かれてから麦が3倍になり、生糸が外へ流れている
と言って、商売上の知見を広げる目的とし「尊王攘夷」なぞ口にしなかった。
喜作に大橋訥庵の塾へ案内されたが、へらず口で嫌われる。
河野顕三という男のマウントがうざかった。
人斬りの練習で真剣を握ったが、河野の
「百姓は鍬や鋤で土でも掘っているのが似合いだ」
とい..
父には、横浜が開かれてから麦が3倍になり、生糸が外へ流れている
と言って、商売上の知見を広げる目的とし「尊王攘夷」なぞ口にしなかった。
喜作に大橋訥庵の塾へ案内されたが、へらず口で嫌われる。
河野顕三という男のマウントがうざかった。
人斬りの練習で真剣を握ったが、河野の
「百姓は鍬や鋤で土でも掘っているのが似合いだ」
とい..
vbc-1 at 2021-04-19 00:00
青天を衝(つ)け (9)「栄一と桜田門外の変」
(2021日)
安政5年(1858)、彦根藩主井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まる。
越前福井藩主松平慶永は隠居謹慎。
慶永の側近橋本左内も謹慎、斬首となる。
井伊は、尊王攘夷や一橋派の志士や公卿、大名ら100名以上を連座させた。
一方、公武一和を図るため、孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の縁談を図った。
岩倉具視の進言で、攘夷の条件を付けての降嫁で幕府を操ることにした。
苛烈な弾圧により、志..
安政5年(1858)、彦根藩主井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まる。
越前福井藩主松平慶永は隠居謹慎。
慶永の側近橋本左内も謹慎、斬首となる。
井伊は、尊王攘夷や一橋派の志士や公卿、大名ら100名以上を連座させた。
一方、公武一和を図るため、孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の縁談を図った。
岩倉具視の進言で、攘夷の条件を付けての降嫁で幕府を操ることにした。
苛烈な弾圧により、志..
vbc-1 at 2021-04-12 00:00
青天を衝(つ)け (8)「栄一の祝言」
(2021日)
安政5年(1858)となり、喜作と栄一が千代をめぐり勝負した。
喜作は勝ったものの二人の想いを尊重した。
老中首座の堀田正睦が勅許を求め京へ向かい、大金をバラまいたが、
岩倉具視ら88名の抗議により孝明天皇は認めず、堀田は手ぶらで帰った。
堀田の留守中に老中の松平忠固、紀州藩家老水野忠央ら南紀派の工作もあり
将軍家定は井伊直弼を大老にした。
一橋派は反対したが、決まったことだった。
直..
安政5年(1858)となり、喜作と栄一が千代をめぐり勝負した。
喜作は勝ったものの二人の想いを尊重した。
老中首座の堀田正睦が勅許を求め京へ向かい、大金をバラまいたが、
岩倉具視ら88名の抗議により孝明天皇は認めず、堀田は手ぶらで帰った。
堀田の留守中に老中の松平忠固、紀州藩家老水野忠央ら南紀派の工作もあり
将軍家定は井伊直弼を大老にした。
一橋派は反対したが、決まったことだった。
直..
vbc-1 at 2021-04-05 00:00
青天を衝(つ)け (7)「青天の栄一」
(2021日)
安政4年(1857)6月17日、阿部正弘(伊勢守)が死去。
勘定奉行で対ロシア全権で日露和親条約を締結した川路聖謨が、
平岡円四郎宅を訪ね、阿部の死を知らせ意見交換。
老中首座を安政2年の大地震後に阿部に譲られていたが、
阿部死去により、名実共に堀田正睦(備中守)が中枢となった。
(永井尚志、川路聖謨)
徳川斉昭が幕府に自身をアメリカに行かせろと要求。
また、姉婿が前関白鷹司政通で幕府..
安政4年(1857)6月17日、阿部正弘(伊勢守)が死去。
勘定奉行で対ロシア全権で日露和親条約を締結した川路聖謨が、
平岡円四郎宅を訪ね、阿部の死を知らせ意見交換。
老中首座を安政2年の大地震後に阿部に譲られていたが、
阿部死去により、名実共に堀田正睦(備中守)が中枢となった。
(永井尚志、川路聖謨)
徳川斉昭が幕府に自身をアメリカに行かせろと要求。
また、姉婿が前関白鷹司政通で幕府..
vbc-1 at 2021-03-29 00:00
青天を衝(つ)け (6)「栄一、胸騒ぎ」
(2021日)
安政2年(1855)10月の大地震で、藤田東湖が亡くなる。
百姓身分の者でさえ、その死を嘆いた。
地震で遅れていたが、将軍家定に嫁ぎ大奥に入る予定の近衛家の養女となった篤に、
薩摩藩主島津斉彬と老中首座阿部正弘越前福井藩主松平慶永が、次の将軍が慶喜になるよう、
家定へ働きかけてほしいと頼んだ。
その頃、越前福井藩主松平慶永の側近だった橋本左内が、
一橋家で仕える平岡円四郎から慶喜の様子を探っ..
安政2年(1855)10月の大地震で、藤田東湖が亡くなる。
百姓身分の者でさえ、その死を嘆いた。
地震で遅れていたが、将軍家定に嫁ぎ大奥に入る予定の近衛家の養女となった篤に、
薩摩藩主島津斉彬と
家定へ働きかけてほしいと頼んだ。
その頃、越前福井藩主松平慶永の側近だった橋本左内が、
一橋家で仕える平岡円四郎から慶喜の様子を探っ..
vbc-1 at 2021-03-22 00:00
青天を衝(つ)け (5)「栄一、揺れる」
(2021日)
嘉永7年(1854)にペリーの再来航となり、3月3日、神奈川条約が締結された。
5月には細則を定めた下田条約の締結となる。
時代状況は書籍となり、百姓身分であっても知ることができた。
その頃、血洗島では、渋沢栄一の姉なかの様子がおかしかった。
小さな子も真顔で気味悪がる。
8月にはイギリスと日英和親条約を結ぶこととなり、
江戸城内では徳川斉昭がキレていた。
老中首座阿部正弘..
嘉永7年(1854)にペリーの再来航となり、3月3日、神奈川条約が締結された。
5月には細則を定めた下田条約の締結となる。
時代状況は書籍となり、百姓身分であっても知ることができた。
その頃、血洗島では、渋沢栄一の姉なかの様子がおかしかった。
小さな子も真顔で気味悪がる。
8月にはイギリスと日英和親条約を結ぶこととなり、
江戸城内では徳川斉昭がキレていた。
老中首座阿部正弘..
vbc-1 at 2021-03-15 00:00
青天を衝(つ)け (4)「栄一、怒る」
(2021日)
嘉永6年(1853)、ペリーが来航し情勢認識に長けていた一橋慶喜は、
父斉昭の期待を無視し将軍職に関心がなかった。
斉昭は息子の側に置くべき人間として藤田東湖の勧めで平岡円四郎を付けた。
平岡が一橋家へ挨拶に行く。小姓ということで食事の用意も含んでいた。
動かない平岡に、家老の中根長十郎が催促する。
平岡の無作法が天然だと知った慶喜は自ら教えてやり感動させる。
当時、慶喜が16、平岡が31の頃だった。
..
嘉永6年(1853)、ペリーが来航し情勢認識に長けていた一橋慶喜は、
父斉昭の期待を無視し将軍職に関心がなかった。
斉昭は息子の側に置くべき人間として藤田東湖の勧めで平岡円四郎を付けた。
平岡が一橋家へ挨拶に行く。小姓ということで食事の用意も含んでいた。
動かない平岡に、家老の中根長十郎が催促する。
平岡の無作法が天然だと知った慶喜は自ら教えてやり感動させる。
当時、慶喜が16、平岡が31の頃だった。
..
vbc-1 at 2021-03-08 00:00
青天を衝(つ)け (3)「栄一、仕事はじめ」
(2021日)
嘉永6年(1853)、渋沢父子は江戸を訪れた。
父が、今年の藍玉の品質を説明する。
その頃、第12代将軍家慶は病床にあった。
慶喜は、貰ったカナリヤの声を聴かせてあげた。
黒船が来航し、水戸前藩主徳川斉昭は、大砲を幕府に献上した。
10日後家慶死去。
家慶は、慶喜に徳川家を任せた。
老中首座・阿部正弘により斉昭が海防参与に就任。
藤田東湖も隠居謹慎、禄剥奪..
嘉永6年(1853)、渋沢父子は江戸を訪れた。
父が、今年の藍玉の品質を説明する。
その頃、第12代将軍家慶は病床にあった。
慶喜は、貰ったカナリヤの声を聴かせてあげた。
黒船が来航し、水戸前藩主徳川斉昭は、大砲を幕府に献上した。
10日後家慶死去。
家慶は、慶喜に徳川家を任せた。
老中首座・阿部正弘により斉昭が海防参与に就任。
藤田東湖も隠居謹慎、禄剥奪..
vbc-1 at 2021-03-01 00:00
青天を衝(つ)け (2)「栄一、踊る」
(2021日)
岡部藩代官の利根吉春が渋沢家を訪ねてきた。
6月吉日に人足100人と金2000両の御用金を要求してきた。
忙しい時期だったので、人数を減らしてくれるよう父が交渉するも、
お上にたてつくなと問答無用だった。
祭りを中止することになり、父と伯父が村人に説明するが、
栄一が反対する。しつこかったので父が拳骨を与えた。
涙が自然に出たものの耐えた。
その頃、第12代将軍徳川家慶は一..
岡部藩代官の利根吉春が渋沢家を訪ねてきた。
6月吉日に人足100人と金2000両の御用金を要求してきた。
忙しい時期だったので、人数を減らしてくれるよう父が交渉するも、
お上にたてつくなと問答無用だった。
祭りを中止することになり、父と伯父が村人に説明するが、
栄一が反対する。しつこかったので父が拳骨を与えた。
涙が自然に出たものの耐えた。
その頃、第12代将軍徳川家慶は一..
vbc-1 at 2021-02-22 00:00
青天を衝(つ)け (1)「栄一、目覚める」
(2021日)
徳川家康が語る。
(平岡円四郎、一橋慶喜)
文久4年(1864)
「既に、徳川の命は尽きております。」と叫んだ男がいて、
慶喜は問いただした。
(渋沢栄一、渋沢喜作)
円四郎がやらせたことで、慶喜が許し、翌日一橋家を訪ねることになる。
(第9代水戸藩主徳川斉昭)
時は遡り、天保15年(1844)武蔵国血洗島で栄作が4歳の頃、
水戸城外千波が原では軍事演習が行われて..
徳川家康が語る。
(平岡円四郎、一橋慶喜)
文久4年(1864)
「既に、徳川の命は尽きております。」と叫んだ男がいて、
慶喜は問いただした。
(渋沢栄一、渋沢喜作)
円四郎がやらせたことで、慶喜が許し、翌日一橋家を訪ねることになる。
(第9代水戸藩主徳川斉昭)
時は遡り、天保15年(1844)武蔵国血洗島で栄作が4歳の頃、
水戸城外千波が原では軍事演習が行われて..
vbc-1 at 2021-02-15 00:00